書くこと、賭けること

書くことを賭ける。賭けることを書く。とどのつまりは遊び。Life is the gambling you know?

「寿という言葉は経験による人の円熟という意味に使われていた」
「成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生むことは出来ない」

小林秀雄「考えるヒント」より

神が存在しない確率

ドラゴンボール 集英社 鳥山明より
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時代の変化

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前世紀のスタイルの物語を見ていると、登場人物の扱いがまあひどい。

主人公の都合で、車、バイクを盗まれる一般人。ただ警備をしているだけなのに気絶をさせられる警備員。お約束という理由で、毎度、毎度、ひどい目にあうキャラクター。サブキャラクター、モブキャラクター。ひどい場合には、名前すら明かされないままに事件に巻き込まれて命を落とすことだってある。

言うまでもなく、虚構の世界に生きる彼らに現実世界の人権というものは付与されていない。しかしながら、それを鑑賞するぼくたちの認識は違う。

明らかに時代はアップデートされている。

時代の変化というものは、良きも悪きもなく「ついていくしかない」ものだと思う。

たとえば「葬送のフリーレン」には悪人が出てこない。どれだけ悪者風の見た目をしていても、根が腐っている人間がひとりも登場しない。では、フリーレン世界に悪はないのだろうかというと、とんでもない。魔族がいる。

魔族の定義は、人間をだますために人間の言葉を話す種族である。

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葬送のフリーレン11巻 原作山田鐘人/作画アベツカサ 小学館より

一見、コミュニケーションは取れているように見える。しかしその実はまったく違う。魔族は魔族に都合のいい世界構築のためにのみコミュニケーションをはかる。魔族は本心として人類と友好的な関係を築きたいのだ。しかし、魔族に都合のいい世界は、人類の都合に悪い。

魔族からすれば、自分たちの理想の世界をとことん邪魔する存在が人類であって、同じ「パイ」を奪い合う以上、共存は難しい。

どういうわけか、ぼくたちは「理解を絶する=自分たちの常識ではとうてい理解できない存在」が存在すると、安心を覚えるらしい。

なぜなら、先述したように、理解ができる(はずの)存在が理解ができない行動をすることに、21世紀を生きるぼくたちの精神は耐えられないからだ。

物語には、時代が映る。明らかに時代はアップデートしている。しかし時代というものは、どこまでいっても改善の余地がある。この改善の余地こそが物語の下地になる。
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本音が真実だと思っているうちはまだ子供

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ある著名人が連載していた映画批評の中で、「この作品を理解できないと言える勇気が必要ではないか」というようなことを書いておられたが、理解できない自分を棚に上げ、他者(作品)下げを行うのは勇気ではなく甘えだとぼくは思う。

先日、物事をわかりやすくすることのいい面と悪い面を書いたが、”わかる”すなわち「理解」には、

①自分は理解できるし+他人(の多く)も理解できること

②自分は理解できるが-他人(の多く)は理解できないこと

③自分は理解できるが-他人(の多く)が知ったかぶりをしていること

というように、自分の理解の裏には3段階の他者がいる。

次に、理解できないだが、自分の「理外」には、4段階の他者がいる。

①自分は理解できないが-他人(の多く)は理解できていること

②自分は理解できない+他人(の多く)も理解できないこと

③他人(の多く)は理解できているが-自分は知ったかぶり(理解しているふり)をしていること

④誰も+彼もみな知ったかぶりをしていること

※他人(の多く)というのは、「普通」「一般的」「偏差値50」くらいの意(親戚の親戚みたいなもの)。


上にあげた理解の壁は、そのまま「自分」と「他人」を分かつ壁でもある。

このうち、「自分が理解できていないこと」が客観的な意見として採用されるのは、②「誰にも理解できないこと」もしくは④「誰も彼も知ったかぶりをしていること」に限る。

知らないことを知る。つまりは無知の知。または、「王様は裸である」と叫んだ子供の視点でありますね。

誰も理解できていない現象に対して、「理解できていない」ことを叫ぶのは、たしかに有益な視点ではあるのだろう。

が、無垢な子供が大人の世界に向けて放つ叫びと、自分のポジション(権威なりプライドなり)を持つ大人の叫びは違う。

いわゆるポジショントークというやつだ。

ポジションを持って(守って)いる限り、何を主張しても、(自分の利益のための)自己都合になってしまう。

人間は、自分の「今」をゼロベースと解釈(誤訳)し、物事を断じてしまうが、「おれには何もない」と思っていても、他者からすれば、「いや、いっぱい持ってますやん」ということは多々ある。

そのうえ、人間はほぼ例外なく、自分の「理解」を過大評価し、自分の理解の「外」の事象を過小評価する性質がある。

「自分」>「他者」

レペゼン子供。逆コナン。を誇りとして生きてきたぼくは、慙愧の念をこめてこの状態を「子供」と呼びたい。

その意味で「本音」というのは赤ちゃんの泣き声と変わらない。

子供で何が悪い? という気持ちはわかる。というよりもその気持ちはまだここにある。ぼくもそうだし、たぶんみんなそうだと思う。それでいい人もいるのだろう。それでいいならそれでいい。が、その状況では自分以上のものには決して手が届かない。

「あなたはあなたのままでいい」というメッセージは誰でも嬉しい。

だけど実際には、そのままの状態で何かを成し遂げるのは難しい。成し遂げられるなら何も悩む必要がない。

自己中心主義が子供の定義だとすれば、大人の定義はこれだ。

①「自分は理解できないが-他人(の多く)は理解できていること」があることを知ること

②「自分は理解できない+他人(の多く)も理解できないこと」があることを知ること

③「他人(の多く)は理解できているが-自分は知ったかぶりをしていること」があることを知ること

④「誰も+彼もみな知ったかぶりをしていること」があることを知ること

裸の王様はぼくで、アリとキリギリスのキリギリスはぼくで、こぶとりじいさんのいじわるじいさんはぼくで、舌切り雀の欲張りじいさんはぼくで、桃太郎の鬼はぼくで、シンデレラの継母はぼくで、白雪姫の魔女はぼくで、猿蟹合戦のサルはぼくで、ジョーカーはぼくで、テレビ版のジャイアンはぼくで、スネオはぼくで、ぼくというのは、放っておけば周りの人に災厄を巻き散らかす可能性のある人間なのだ。どれだけ納得いかなくても、その可能性がありうることを受け止めるしかないのだと思う。

自然界を見渡してみれば、生物が成体になるための変身、変態にいかにコストをかけているかがわかる。ぼくたちの成人式とは違い、そこに至るまでに多くの生物が命を落とす方が普通なくらいに大人にになるのは難しい。

自分の殻を破った後の”むきみ”の姿。その自分と他者の境の薄れた姿こそが、本当のあるがままの自分だと思う。没個性? とんでもない。そのときぼくたちは、ぼくたちが自分ひとりで生きているわけではないことの意味を知る。

そう。最初から答えは出ていたのだ。自分の殻を破る。それが大人になるということである。
作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、トレードをするなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきってまいりましょう! どこへ? チャートの世界へ。
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